この先に見えるもの

教育関係で社会人ひよっこ。ツルツルのたまごが思う日々のこと。

授業の教材作り プリントの意味

非常勤講師というのは基本職員室に机はないみたいです。学校にもよりますが。

私は複数掛け持ちしているため、もちろん据え置きの机やパソコンはありませんが、それぞれの学校の準備室を一部屋使っています。PCは専任の先生の物を借りたり、職員室の講師用ノートPCがある学校もあります。基本的にすべて借り物。

 

学校にゆっくり腰をすえる場所もないため、基本的に教材作りは自宅で行なっています。

 

私は一応教科書ベースですが、毎回必ずプリントを準備します。

 

プリントは少しの書き込みスペースと、拡大した図版のみ。教科書とさほど効果は変わりませんが、この書き込み作業を大切に評価したいという気持ちから、必ずプリント作業は組み込むようにしています。

 

私が思うに、授業は大きく分けて

・説明

・練習

・理解上達

の三段階で成り立ってると思っています。

 

お習字教室にように、課題を与え、書き込み、添削、聖書というのは個人指導で行った方がもしかしたら上達は早いのかもしれません。

しかし、学校の授業というのは月謝を払って自分で選んできている生徒ばかりではありません。とても雑多な、輝きの多い教室です。

 

みんなで共有し、それを個人的にどうまとめて理解していくのか。

 

それは十人十色、たくさんの方法があります。

カラーペンで可愛く楽しくメモをする子、シャーペンでナンバリングをして手順を記録する子、吹き出しや矢印を使って余白を効果的に使う子、注意点を大きく描く子、ポイントをまとめ、口頭の補足説明は端に小さく書く子。

 

私は一斉にこれを書け、ここにこの言葉を入れろ、という指示はしません。

必要と思うことは黒板にちょこっと書き、口頭でできる説明はすべて口頭で行います。

その時、生徒に言う言葉は一つ。

 

「後で見返して分かるように、自分だけの説明書みたいにメモを取っておいて」

 

この言葉をどう捉えるかは自由ですが、決まりごとをなくした瞬間は、生徒たちはかなり戸惑います。

 

数学でも社会でも国語でも、綺麗に黒板に書かれた文字を写すのは得意な子が多いです。

しかし、そこに規制や約束がなく、自由に書けと言われると途端に萎縮してしまいます。

 

それはきっと、評価に関わるという考えを持っているから、その成果物を自分の責任で書くことに抵抗がある、間違った書き方をしたらどうしようという気持ちからだと思います。

 

しかし、回数を重ねていくごとに、なんとなく感覚をつかみ、「情報をまとめ出す生徒」がちらほら出てきます。

生徒たちは、周りがどうやっているのかが気になり、隣近所のプリントを見る傾向が強いので、その時に「こういう感じにすればいいのか」と仲間からヒントを得られます。

 

すると、少しずつ自分の色や特徴をプリント作業におりまぜる生徒が出てきます。そのような工夫が苦手な子でも、話をどうまとめようか、必死に説明を聞き理解したいと思うようになってきます。

 

最初は「いい感じでプリントを書きたい」という思いだけかもしれませんが、それを繰り返していくうちに、彼らは自然と「言葉や文章で流れてきた情報を自分の力で纏める能力」が身についていくのです。

 

私もそうですが、ゆとり世代以降は言われたことしかできない、と揶揄されることが多々あります。

それは確かにそうだと、当てはまる節もあります。

失敗を恐れるからカチカチにはまった枠が好き、言われたことは百点満点こなして怒られない人生をよしとする傾向は強いかもしれません。

 

そんな中、たかが週に一回の授業の、ものの数10分の「プリント作業」という行為が、自分をなんとなく囲っている枠から少しだけ抜け出せる、正解も失敗もなく、よく聞きよく書いたものを後で見るとどう感じるかを知る、そのために人の話が聞けるようになる。

 

直接教科とは関係はないかもしれませんが、私はそういう日々の糧になることを少しでも積み重ねていけたら、と思ってこの制度を導入しました。

 

うまくいかない日もあるし、どうしてもすくい上げられなかった子もいます。

 

それでも、彼らの可能性とかすかな発見、それにかけてしまうのです。

 

たとえこれが成績をつけるための行為だと思われていても、思考して、頑張って書いたプリントたちには、彼らに努力や工夫がちりばめられているので、いつかどこかでこの行為が実になってくれたらいい。

 

そんな気持ちで今はいます。