この先に見えるもの

教育関係で社会人ひよっこ。ツルツルのたまごが思う日々のこと。

反省文って何のためにあるの?問と自分なりの答え

今日授業中に生徒に対して、いろいろな理由で指導しましたーと担任に連絡。

そしたら一言

「反省文書かすので受け取ってくださーい」
とのこと。

教室に行き、二人並べて、あーだこーだと言いながら作文指導も入り。(漢字の送り仮名が壊滅的だった。)
自分が悪いと認めながらもブータれる姿を横目で見ていた小一時間。
いい大人になろうよ、と約束して解散。
そのあとも小忙しく過ごし、突然の残業でクタクタでした。

この学校の指導方針でもある居残りと反省文。

実は、去年の私はどうしてもこれを生徒にさすことが出来なくて、悩んで悩んで悩み抜いていました。



夢と希望を持った大学を出たてのピカピカ講師だった私。


初めて社会人として足を踏み入れたこの学校は、少し手のかかる生徒の多い学校ではありましたが、根気強く向き合うこと、指導力の鍛え直し、そして私が苦手な「生徒指導」も嫌という程体験できたのです。

この学校は教室が落ち着きにくい場合、廊下の先生に預け職員室へという流れがあり、先生判断で居残りの反省文指導という流れになっています。


しかし、私は「授業中に教室から生徒を抜き出す」ということがどうしてもできませんでした。



仕事を放棄している気がしたからです。


まして、授業もまだまだの私が、すべて生徒のせいにして授業から排除してもいいのか?

その上生徒に無理やり言葉を並べさせ、何の意味もない時間をつかってもいいのか?

私がしっかり指導できてれば、この子たちは色いろな先生から怒られずにすんだのでは?


そんなことを考えれば考えるほど、自分でどうにかしなくてはと思い、自分の殻と準備室に閉じこもり、授業で起こったことを誰にも相談できない日々が続きました。


何かきっかけがあったわけではないのですが、今年は少し力を抜いて、人に甘えながらお仕事をしています。



反省文というシステム、抜き出し指導というシステム、まだまだふには落ちていませんが、自分なりに考えた答えが幾つかあります。


会社でもどこでもあるじゃん反省文

そう、よくよく考えるとこの行為や形式、日本にいたら社会に出たって続きます。

反省する内容の大きさは変わるでしょうが、形式や書き方は大差ありません。


書くという行為が持つ力

反省文について検索したらこんなページも出てきました。


ここにも書いてある通り、「書く」という行為は言葉で話すよりもより多くの思考を要します。

今日だって、書くという行為から漢字の学習もできたし(私が思ってるだけですが)、文章にする過程でもう一度自分の行った行為を振り返ることにもなります。

指導されるということは、大なり小なりルールやモラルに反した行為行動があったということ。
それを「ごめんなさい」で片付けるよりも、より深い思考と結果が得られるのは利点かな、と考えられるようになりました。


教師個人ができることに範囲をわきまえる

先日、ちょっと思うことがあって一つの記事をあげたのですが、

それに言及してくださったこのエントリー

ここに書いてある、教育や成績はこの責任かというところ、ここにもかかってくることです。


芸術科の教室って、クラスがある棟から少し離れたところのあることが多いんですいね。

実習棟とか特別棟なんて言われることもいいのですが、ここはきっと担任含む他の先生から授業などが見えにくく、伺いにくいところだと思うのです。

だから、反省や指導という形にはなってしまいますが、何かを発信して学年に持って帰ってもらうということは、結構こちらを知ってもらうチャンスなんです。


普段の会話では伝わりにくいことや、たくさんのことをまとめて報告できますし、たぶん先生たちも開けっぴろげに情報公開している方が助かる、という考えになりました。



昨年の私、もっと早くに気づいてたならもう少し楽だったのにね。


そんなこんなで、私も少しずつオープンになり、なんとかやってきているところです。




しかし、やっぱり抜き出しや反省文を全肯定はできないところもあって。


難しいですが、折り合いをつけられるようになったのは、成長なのか、はたまた感覚が麻痺してしまったのか笑

良くも悪くも色んなことを知ってきた証拠でしょうか。

そんなことを思った週末でした。



ここの学校は正直体力も持って行かれてとても消耗しますが、一番考えることが多くて面白いです。